火のまつりの歴史

火のまつりの始まり

1990年に施工が完了した水俣湾埋立地の活用と地域振興のために、同年から「環境創造みなまた推進事業」が熊本県の主導で始まりました。環境創造みなまた推進事業は1990年から1993年までの3年間は県の主導で実施され、1994年からは事業の主体を水俣市へと移行しました。そして、1994年度の環境創造みなまた推進事業の中で11月4日から6日まで開催されたイベント「環境ふれあいインみなまた94」最終日の祈りの行事企画として行われたのが火のまつりの始まりです。

発案は水俣病患者有志による本願の会からでした。本願の会会報第2号には次のように書かれています。

火のまつり(偲火の祭祀) 昨年秋、患者さんの発案から魂石の魂入れ行事の模索として産まれてきました。「祈りの火」として浮きローソクを仕込んだ竹の燭台1500基、「誘いの火」として2000本の松明が燃えるなか竹人形の舞い、楽奏、そして語りにより敬謙な祈りが捧げられます。そして最後は水俣市内各地区の有志によって供えられた大松明数基に火が灯され水俣病の不再を誓い合います。


(本願の会 会報 第2号 1995.10)

初期の開催趣旨

初期の会議資料などには「まつり」が「祀」と表記されていることから、火のまつり初期の開催目的は水俣病で失われた全ての命や埋め立てられた海に対する祈り、鎮魂が主であったことがうかがえます。「祀」の表記に関しては「読めない」「分かりにくい」などの理由から現在の表記になりました。開催趣旨は1回目の開催から現在まで基本的には変わっていません。以下に初期の開催趣旨を記載します。

水俣湾は水俣病の原点の地であり、水俣病の犠牲の上にできた水俣湾埋立地は、祈りの地である。水俣病の舞台となった悲劇の海、水俣湾。埋立地より水俣湾を見ながら、水俣病で犠牲となった生きとし生けるものに、さらに、埋立地に封じ込められた海と命に対し祈りを捧げる。とともに、犠牲を無駄にせず水俣病を教訓に地域を再生し、二度と水俣病の惨禍を繰り返さないことを誓いあう。


(祈りの行事企画(案)(仮称)火のまつり 会議資料 1994.9.12)

・水俣湾は水俣病の原点の地であり、埋立地は祈りの地である。と共に、人が埋立地(の利用)にひきつけられ感動を共有できる場であってほしいという両側面を達成することが求められている。
・「ねばならない」では内発的な動きにはならない。
・埋立地あるいは水俣湾、水俣病のことを再考、再認識するためにも火を使った祈りの行事が必要だ。
・よそに頼み、有名な演出家を入れてもだめ。いくらお涙頂戴の演出をやっても、水俣病患者の痛み、思いを理解しようとしているもの、せめて側にいるものが内発的にやることが意味があるだろう。


(火のまつり企画懇談会 会議資料 1994.9.20)

偲火の祭祀は、「誘いの火」「祈りの火」「誓いの火」の三つの火と「招魂太鼓」、既成の宗教にとらわれない祈りの歌舞、語りによる演劇的な祭祀により構成される。
※火は古来より、人と天の間を取り成す役割を果たしてきた。
・「誘いの火」は、招魂太鼓の旋律にのって、生きている現世の魂、水俣病により失われた全ての魂を招き寄せる。
・「祈りの火」は失われた魂たちに、
・祈りの歌舞、語りは累々と連なる全ての生命、魂のために捧げられる。
・「誓いの火」は、二度と水俣病を起こさないことを誓うものである。
水俣病を教訓に水俣を再生しようとする様々な試みが行われている。しかしながら、人々は日々の暮らしの中でいつもいつも水俣病のことを考えているわけではない。
大事なことは、水俣病の記憶が遠のいていかないよう、見て分かり、気持ちの動く行事、記憶にとどまる形を創造していくことである。
※水俣病患者有志は「本願の会」を結成し、埋立地に可能な限りの自然環境の創造「実生の森」を育成し、そこに魂石を置こうとしている。この世の業苦を身に引き受けた患者の生き死にの証として、また、「今度生まれ変わる時には・・・」という蘇りの願いでもある
※火のまつりは、そんな水俣病患者の志に同調する水俣再生への願いでもある。火のまつりは、ともすれば水俣病のことを忘れがちな日々の暮らしの中で、巡り巡る季節の節目に、水俣病患者とそうではない人たち、様々に違う想いを抱いて集まる人たちの心を癒し、関係をもやい直す日でもある。
失われしものたちの魂を招き入れ、慰め、癒し、誓うこと。集まった人たちの気持ちを込めて、限りなく荘厳に、幽玄に。水俣病を経験した水俣の蘇りが、日本のみならず広く人類の蘇りにつながっていくことを念じて。


(火のまつり企画懇談会 偲火の祭祀(火のまつり)95 会議資料 1995.8.30)

なぜ「火」が使われたのか

「火」は生命の象徴、この世とあの世を繋ぐもの、祈りを天に届けるための媒介として使用されました。以下に会議資料などに書かれている、火が使われた理由を記載します。

・火は「生命の象徴」ではないか。命の躍動。
・夜を使いたい。夜は精神の集中ができる。昼はいろんなものに目がいく。
・キャンプで火を見るといいもんな!
・「誕生、躍動、旅立ち」で組めばどうか。


(火のまつり企画懇談会 会議資料 1994.9.20)

火は、古来よりわたしたち人間のそばにありました。その火は、わたしたちの願いを自然の神々に届ける役目を果たしているといわれます。火を生命の象徴として、犠牲者を偲びながら、みなさんの祈りの気持ちを火に託してとどけます。


(火のまつり(偲火の祀)進行シナリオ 1994.11.1)

媒介として三つの炎を使いますが、古い昔より火が人と天やあの世、霊界などと云った目に見えない世界を橋渡しをする役目を果たして来た事。そして、炎というもの自体が実在と不在の往復運動を繰り返すなか参加者を幻想の中に誘い胸中に様々な想いを蘇らせ、「一人静かに考える」という時間を与えてくれるのではないかとの考えからです。


(本願の会の会報 第2号 1995.10)

【火のまつり縁起】
日本各地に伝承される「火祭」は天変地異、疾病の流行などの後、万民の幸福を願って始められたものが少なくない(例:鞍馬の火祭)。様々な災いに為すすべを持たなかったその昔、人々は火に祈りを託し天に届けた。
近代文明特に自然科学の発達は、自然界の様々な謎を解きあかし災いに対する方策を人類に与えている。しかしながら、近代文明は自ら治癒させる方策を持たない災い「水俣病」を人類に与えた。
今、発生から半世紀の歳月が経ち、静かに終息の時を迎えている。
今、この地で生きているものは自らの手で、その災いと経験に戒めと教訓を覚え、水俣の再生を願い、犠牲になった魂たちに敬けんな祈りを捧げる。それが「水俣・火のまつり」である。


(平成9年度環境創造みなまた推進事業報告書 1997)

実行委員会の体制が変化

火のまつりの発案者である本願の会は1994年から1998年まで祈りの部分の演出をメインで務めましたが(1999年は台風の影響で中止)、2000年に実行委員会から離脱しました。その原因としては、本願の会の体力的な問題、本願の会が本来やりたかったことと実際行われることの乖離、本願の会とその他の参加者の祈り・鎮魂に対する問題意識の違い、祈りの形に対するコンセンサスが得られていなかったこと、等が考えられます。

環境創造みなまた推進事業は1998年度までで終了しており、翌年度から火のまつりの予算も大幅に縮小されました。2000年はまつりの内容と体制において大幅な転換が余儀なくされていたことがうかがえます。

地域の火のまつりとして再出発

祈りの部分をメインで担っていた本願の会が実行委員会から離脱しましたが、その後の火のまつりは、寄ろ会を中心とした地域の火のまつりとして再出発しました。以下は、2001年の第1回実行委員会議事録に添付されていた、火のまつり方針(案)です。祈りを捧げるために火のまつりを行うという目的は変わっていませんが、祈りに対する認識に変化があったことが示されています。

火のまつり方針(案)

1 始まり
地蔵さんを埋立地(エコパーク水俣)に設置したいという要望が水俣病患者有志(本願の会)よりあったため、「環境ふれあいインみなまた94」の中で石像を設置して、祈りの行事(火のまつり)がスタートした。

2 目的
水俣病で犠牲になった全ての生命に祈りを捧げ、地域再生の願いを炎に託し、市民手づくりの事業を実施し、もやい直しを推進する。
(参考)慰霊式の開催趣旨
水俣病の発生によって犠牲となり、亡くなられた方々の慰霊を中心に、さらには水俣病が及ぼしたいろいろな被害やその大きさを再認識し、環境破壊に対する反省と環境再生・創造への誓いを込めて、全市民で祈りを捧げる。

3 火のまつりと慰霊式の違い
慰霊式は行政主導、火のまつりは住民が自らの手で創造するもの

4 祈り
水俣病の犠牲を無駄にしない(水俣病を正面から向き合う)ために、水俣には祈りが必要であり、これを全市民の共通の認識としたい。
しかし、個々の祈りの質は違う。水俣病に限らず、自分の親が亡くなった葬式と知人の親がなくなった葬式では、祈りへの思い・態度は違う。
けれど、他人の葬式にも祈りに行く。(個々に何らかの思いを込めて祈る。)
また、お盆や彼岸にも先祖の墓に祈る。意味の判らない子どもも祈る。習慣(常識)になっている。
水俣病で犠牲になった人々と全生命の慰霊のため、市民が自主的に集まって祈れる場が必要
お盆や彼岸のように定着させるためには、水俣病の祈りは歴史が浅いため、エネルギーが必要になる。
それが、「火のまつり」

5 参加者
患者・遺族・市民・行政・企業等、水俣市内の全市民が対象
自主的に参加するためには、個人個人あるいは各地域から祈りに必要なもの(捧げるもの)を持ち寄る。(火、地域で取れたもの、お花、酒等)
持ち寄られたものを一箇所に集める。(海の方向又はメモリアル)

6 在り方
(簡単)・(派手)・(判り易い)→(感動)
持ち寄る・火・集める→音楽、語り合う、火を見つめる

火のまつり

・火のまつりの原則とは何か、目標は何であったのか、それは達成したのか。

・原則
埋立地に封じ込まれ、人の身代わりになった魚たちへの鎮魂。
水俣病で犠牲に人だけでない多くの生き物への祈り。
祈りを火に託して届ける。
祈りを忘れた水俣再生はありえない。
無宗教形式で行う。
もやい、患者も含めた地域住民を主体にみんなで実施する。
水俣市は最低限の費用を提供し、住民活動の事務局を引き受け支援する。

・目標
水俣病で犠牲になった多くの生き物に祈りをささげる。 年に1回
患者を含めた地域住民を主体に実施する。 10人以上
手作りで実施する。 町型のもやいである実行委員会形式で行う。
これに加えて当初は会うこともなかった患者と市民がいっしょに取り組むことが大きな目標になっていた。

・評価軸を事前に作成しておくこと
祈りをささげたのか。
想定した人は集まったのか。
手づくりで実施したのか。
患者は参加したのか。

・これからどのように
火のまつりは生まれ変わります。
21世紀の水俣づくり
火のまつりは、地域の火のまつりとして21世紀を出発します。

変更することがら
ちゃんと祈ること
火のまつりの前が大事 「祈りがされること」
・祈りは、1ケ月前から実施
・火のまつりは1日(9月の第3土曜日)
・終わった後も大事

実行委員会が主体とは、地域主体の行事になるということ。
従って、地域主体の行事を支えるようにする。
また、一人一人の気持ちを集めるようにする。
メモリアルにロウソクをもって集まるなど。


(平成13年度:第1回火のまつり実行委員会会議録 「火のまつり」方針(案) 2001.06.25)

現在の火のまつり

現在の火のまつりは、上記の方針で示されたように地域の火のまつりとして定着することを目指して現在まで毎年続けられています。

お盆やお彼岸のような習慣として本当の意味で地域に定着するためにはまだまだ時間が必要ですが、毎年9月の中旬ごろになれば「もうすぐ火のまつりだね」と言われるような地域の行事となることを目指して、これからも続けていきます。

大切なことは火を絶やさないこと。規模が小さくなっても、形が変わっても、海と魚たちが眠る埋立地の上に火を灯し続けることが、火のまつりの役割だと考えています。